休日だってのにえらい早く起きてしまった。何か時間を持て余してる感じなので、いつも通り思い付いたことを書く。
これはオンラインに限った話ではないが、まともに何かについて議論するには双方が同じ解決したい問題を持っていることが最低限の条件だ。例えば俺がいくらプログラミング言語において文法はとても重要だ、何故ならそれが学び易さに直結するからだといっても、その相手がプログラミング教育について無関心、あるいはプログラミング言語自体はどうでもいいという考えだったら、何を言っても通じないだろう。つまり、プログラミング言語の設計とその教育の二点について何かしら問題意識を持っていない相手には、多分俺が何を言っているのかさっぱり理解できないだろう。
そして非常に重要なのは、相手に問題意識を持たせる事はとても難しいということだ。というのも何かに問題意識を持つって事はつまり、それまで自分が当然だと思っていた物事に疑問の目をむけるということだからだ。 (多分) これは時として強烈な不安感をもたらすものであり、何かに疑問を持つことを避けるという心理は理解できなくはない (多分と書いたのは、別に俺は全然不安に思わないから)。もしもそうでなかったら、とっくの昔 (科学が完全に神学から分離したあたり?) に宗教なんざ滅んでるだろ。
そして俺が不毛だなーと思うのは、明らかに問題意識を共有してない連中同士でギャーギャーやりあっているところである。お互いのゴールが全然違うんだから、それはまるでボクシングとテコンドーで異種格闘技戦をやって、お互いにそれぞれのルールで採点しろと言い合っているようだ。そして一番俺が酷いと思うのは、何がゴールなのかを本当はわかっているはずなのに、そこから目を背ける連中がえらい多いということである。そういう場合は大抵、そいつのくだらん個人的な好みの問題だったりするのだが。よーするに、個人的な問題と全体的な問題、あるいは手段と目的を混同してやがるのである。
プログラミング教育の話に戻ると、俺は Python がいまんところ一番ましな選択肢だと思っているが、もしも Python よりもまし、あるいは同程度にましな選択肢があり、それを使うってんなら別にそれは否定しない、というか否定する理由がない。多分俺は個人的な趣味では Python を使いつづけるだろうが、それを強行に主張する程アホではないつもりだ (今は他にまともな選択肢が見付からないのでかなりの強行派だけど)。パラノイアは個人的な世界で完結してこそのパラノイアだろ!
全然話は変わるが、プログラミングなんてのは職業プログラマがやってりゃいいという考えは嫌いである。というか、論外である。別に俺は原子炉の制御系を誰もが作れるようになれとは言ってないが、コンピュータを使う上で感じる日々のちょっとしたイライラを解消できる程度の能力はあった方がずっといいとは思っている。ありあわせのもので適当な料理を作るとか、本棚が壊れかけているから修繕するといった能力はあった方がいいだろ (そして誰もが中華の鉄人や大工の棟梁になる必要はない)。第一こんだけコンピュータが一般的なものになったんだから、プログラミングも一般的な知識になってもおかしくはないだろ。
衝動的に大掃除開始。
そういや職場では年賀状の話題がちらほら出ていたような気がするけど、俺はここ 8 年ぐらい年賀状を出していない。というか、受け取ってもいない (面倒だから送るなとすら言っている)。当然、年賀状の変わりに年賀メールなんていう事もしていない (そういうのが送られても送り返さない)。俺はこういう面倒な事は嫌いなんだよ。
上司に貸していた YOUNG GUITAR の DVD が帰ってきたので、久しぶりに Angelo 先生の勇姿を見る。いやー、やっぱこの人おかしいよ。実は音色やタッチの細かい使い分けでの表現なんかも巧みな人だと思うんだけど、どうしてもファンサービスでキチガイプレイに走っちゃうんだろうなー。でも伝家の宝刀のダブルギター奏法や究極奥儀のアンジェロラッシュを使わない先生なんて先生じゃないので、やっぱこのまま誰も付いてこなさそうな道で独走状態でいてほしいと思います。
それより普段利用してる店には先生の CD が入荷していないのですげえ不満だ。
本日の名言:「普通の人なら、死んだらすぐに給料入んなくなるんだからね」
相変わらず檜山さんは視点の鋭さが違う。
ところで著作者の作品に対する名誉だけど、これはむしろ著作権の有無とは無関係な話だと思う。というのも、仮に誰かが既に世に広く知られている作品、例えば Led Zeppelin の「天国への階段」を自分のオリジナルだと発表したところで、それは明らかに殆んど全ての人達から「ふざけんな」と突っ込まれるだろ。もう少し遡ろう。ベートーベンの「運命」をやっぱり自分のオリジナルだと発表した場合には? やっぱ「死ね」と言われるのがオチだろ。そして確か著作権と呼ばれるもののうち、本人がそれを作ったことの証のような奴である著作人格権……だっけ? よくわかんねーけどそっちは作者が死ねば即座に消えるのだそうだ。でもなあ、いくら法律上消えたところで、「天国への階段」を書いたのはツェッペリンだっていう事実は残るからなあ。
ところで "Free Culture" キーノートをまだ見たことがない人は一度見た方がいいと思う。
最近気がついたのだけれど、「勉強不足」とか「◯◯を読め」といった類の言葉の使い方で、そいつがバカかどうか、あるいは詐欺師かどうかが判別出来そう。今現在の仮説は、とにかく頭ごなしに勉強しろとだけいって資料へのポインタを示さないとか、あるいはその具体的な内容に触れないのであれば要注意。最悪の場合、この世のどこにも存在しないことについて勉強させようとしてるのかもしれないからな。
「◯◯を読め」も結構悪質というか邪悪で、例えばオブジェクト指向プログラミングの議論では必ずといっていいほど「GoF 読め」と言い出す奴が出てくるのだけど、今の時代に GoF かよ、と思う。こういうよくあるパターン集 (いや、いくつかのパターンは汎用的とは思えないけど。 Singleton とかね) を体系的にまとめてコードの再利用だけではなくノウハウの再利用という概念を広めた功績は確かに認めるけど、あれそんなにいい本か? 結城先生の本の方が、ずっと簡潔で初学者が手っ取り早く知識を仕入れることが出来ると思うんだけど。そもそも、その手のパターンがあったからってパターンが常に適用できるものではない以上、そこまで重視しなければならないものだとは思わない。
話がずれた。よーするに、これらの言葉は相手に時間を使わせようとする方向に向いているのであり、それが相手に有意義な時間の過ごし方だと納得させようという意志が見られない場合、注意するに越したことはないだろうって事。