人間とか社会が昔と変わってるんだから、人間の話す言葉の方も変わって当たり前。 8割以上の大人が漢字力の低下を感じているなら、それはもう人間の方が危機感を感じる必要は無くて、日本語の方が変わるべきだと思う。
(中略)
しょっちゅう言われる「日本語を正しく使おう」という姿勢よりも、ここで言ったような「日本語をよりよくしよう」という姿勢の方が建設的だと思う。言葉は手段であって目的ではない。
いや、まったくもってその通りでございます。俺の言葉なんて通じりゃいいじゃんという姿勢は、見方を変えればたとえ正しい言葉遣いでも時代にそぐわない、相手に通じにくいものなら使う必要なしってものだからな。大体さー、昔の言葉が正しいとかいってる連中は何で平安時代とかそれ以前にさかのぼらないのかねえ? そこら辺の正しい正しくないの判断が恣意的過ぎるんだよ。
というか何事もそうだな。大抵の場合、正しさってのは言ってる本人の趣味だ。自分の趣味にイデオロギーだのなんだの余計なものを付けなきゃ落ち着かないってのは、本当に見苦しいよ。
で、だ。言葉なんて通じればいいというのはプログラミング言語にも当てはまるが、それは動けばいいという類の話ではない……というのは前に書いたような。プログラムだって人間に通じなきゃ意味がなく (メンテナンスの時の事を考えろ)、究極的には自然言語によるコメントを完全に排した状態でも苦労せずに読めるようになっているのが理想だ。もっとも俺はそんな境地には達していないし、そもそも今のプログラミング言語がそういう方向でどの程度の完成度かというと、まああんまり良くはないかな。それ以前にプログラマの意識があんまり高いようには思えないし (プログラムの意味が通じる==処理系が通すだと思ってるバカが異常に多いんだよな。そんなことは当り前の話だっつーの。動かないプログラムってのはサルにキーボードを叩かせて打ち出した文書みたいなものだ)。
そして同じように、プログラミング言語も変化からは免れない。これは全く当り前の話で、例えばハードウェアコストの関係で実現できなかったもの (GC とか) が今や当り前に実装されるようになってきたし、動的型や高階関数、クロージャも普通のものになりつつある。昔の常識は今の非常識なのだ。が、本当に今の方向性があっているのか、俺にはかなり疑問だ。
話は今朝方リンクした文書に戻る。というか表音文字と表意文字の二系統のある自然言語の方が情報伝達の効率がいいのかどうかについてなのだが、これは少し考えてみたけどちと結論が出ないな。俺はあくまでもプログラミング言語を中心に考えてしまうのだけれど、プログラミング言語における表音文字と表意文字ってのは、つまり記号の占有率の事なのかもしれない。だったらリンク先の文章は大間違いで、出来るだけ記号の占有率は少なくした方がいいということになる。いや、これは当り前の事かも。だってさー、俺ら日本人は既に多くの漢字を学んでいるからいいとしても、今から日本語を学ぼうという人にはやっぱきついんじゃない? まるで Perl なんかで記号と格闘してるみたいでさ。だから表意文字ってのは慣れるとそれなりかもしれないけれど、慣れるまでは死ぬ程辛いって事なんじゃないかと。自然言語ではこの費用対効果がどの程度かはわからんけど、プログラミング言語なら答えは自明の理だ (意味のわからない人は Python を学ぼう)。
どうも Winny 裁判はインターネットへの不当な規制の立法のスケープゴートにされている感がある。もしも最終的に無罪になったとしても、司法のしゃべりすぎに書かれているような理由欄の蛇足により、むしろどうしようもない形でインターネットの規制が進むかもしれない。三権分立の立場からすれば、判例やらなにやらを元に立法への影響を与えることは非常にまずいんだよ。