Diary?::2006-10-17

00:37

昨日リンクした The flying spaghetti monster の勝手翻訳。結構誤訳してるくさいが、まあこういうのは誰かが始めないと話にならんので。


「空飛ぶスパゲティモンスター」

どうして僕達は地球上に存在するのだろう? リチャード・ドーキンスにはあまりにも簡単な質問だ。この白熱したインタビューで、この高名な生物学者は宗教は害悪であり、そして神は子供の空想なのかもしれないと主張している。

科学と宗教の凄まじい討論において、リチャード・ドーキンスからの莫大な影響はこれ以上無いほど大きい。英国の科学者であり最高の対宗教検察官であり -- ある雑誌は「ダーウィンの犬」と呼んだ --、そしてもっとも世界で有名な無神論者。ドーキンスはかつてアメリカ人道主義協会に対して「私が思うに、世界でもっとも酷い害悪の一つは強い信仰によって作られ、それは天然痘ウィルスと比べても根絶が困難だ」と言った。

当り前だが、これらのコメントはドーキンスを進化論の討論の中心に引っ張り出した。彼が迷信やまやかしを受け入れられない人々のヒーローである一方で、彼のダーウィニズムと無神論を結びつけようという努力は、フランシス・コリンズやマイケル・ルズのような宗教と科学のギャップを埋めようとしている科学者と哲学者を不安がらせた。驚いたことに、インテリジェントデザインの支持者の一部はドーキンスの挑戦を実際に迎え入れた。例えばウィリアム・デムスキは、ドーキンスの刺激的なレトリックは進化論を非キリスト教的に思わせてしまい、 ID を助けることになると主張している。

ドーキンスの率直な無神論は、彼の公式のキャリアでは比較的最近になってからのことだ。彼が最初に名を為したのは 30 年前の「利己的な遺伝子」という革新的な本 -- 進化は動物の個体レベルではなく遺伝子レベルで起こっているという主張で進化論に関する生物学の分野を作り直した本 -- と共にである。ドーキンスは今、オックスフォード大学で "Public Understanding of Science" のチェアマンとなっている。彼の簡潔で高尚な、実に素晴らしい文才は進化論を一般に広めることに (スティーブン・ジェイグールドは例外かもしれないが) 他のどの科学者よりも成功した。 ドーキンスは素敵な比喩で科学を説明してくれる。「利己的な遺伝子」や「盲目の時計職人」のようなフレーズはある科学的な考えをまとめただけではなく、英単語としての地位を獲得した。そしてドーキンスの最新の著書は最近彼が情熱を傾けているものへ向いている。 "The God Delusion" において、ドーキンスは原理主義者と同様に、宗教に寛容な一派へも反対を表明している。彼は神の存在は科学的には憶測に過ぎず、その証拠まで持ちうるものではないと主張している。そして彼は神学を学ぶことをきっぱりと否定している。「私は神学が (聖書の歴史、文学などに対して) 学問の対象であると思うに値する根拠を目にしたことが無い」。彼のコンセプトである "memes" -- アイディアは遺伝子のようにそれ自体が進化していく -- は文化における進化について新しい考えを生み出している。

ドーキンスの最新の著書は最近彼が情熱を傾けているものへ向いている。 "The God Delusion" において、ドーキンスは原理主義者と同様に、宗教に寛容な一派へも反対を表明している。彼は神の存在は科学的には憶測に過ぎず、その証拠まで持ちうるものではないと主張している。そして彼は神学を学ぶことをきっぱりと否定している。「私は神学が (聖書の歴史、文学などに対して) 学問の対象であると思うに値する根拠を目にしたことが無い」。

私はドーキンスとオックスフォードで、彼がアメリカンブックツアーに取り掛かる間際に電話で話すことができた。私たちは疑問を待たれることのない信仰の危険性、進化の議論における政争、そしてどうして無神論者が世界でもっとも知的なグループなのかということについて話した。

-- あなたは少年の時に教会へ通っていたと書きました。無神論者になったのはいつの事でしょう?

私は 9 才の時にこの世界には多くの異なった宗教があり、それらが全て正しいなんてことは有り得ないことに気がつき、疑いを持ち始めました。私がそうやって成長したのはまったくの偶然です。私は 12 才ぐらいで一旦宗教へと戻り、最終的には 15,6 で宗教の元を去りました。

-- 神と宗教は何ら知的なものでは無かったのでしょうか? そしてそれがあなたが宗教に反旗を翻した理由なのでしょうか?

そうです、純粋に知性の問題です。私は「世界に邪悪が満ちているのに、どうして善良な神がいられるのか?」などといった倫理的な問題に頭を悩ませたことはあまりありません。私にとって、それは常に知性の問題でした。私はあらゆるものが存在するその理由を知りたかったのです。私は生物に対して特に強く興味を持ちました。そして私がダーウィンの学説に出会ったとき -- それはくらくらするほどエレガントで、そしてパワフルで -- 私はあらゆる種類の超自然的な力を説明に使う必要はないとわかりました。

-- どうしてあなたは無神論者を自称するのでしょうか? 不可知論者ではなく?

さて、技術的には不可知論者は不可知論者以上のものにはなれません。しかし私は神に対するのと同じ程度に妖精と空飛ぶスパゲティモンスターについて不可知論者です。不可知論者は神の存在について反論することは出来ません。したがって、積極的な無神論者であることは技術的に不可能です。しかし、あなたはトールやアポロに対するのと同じ程度に神に対して無神論者となれます。現代では、誰もがトールとアポロに対しては無神論者です。そうして一つずつ神を否定していくのです。

-- あなたが神について話しているとき、あなたは聖書の神 -- 旧約聖書のヤハウエ -- について話しているのですか?

ええ、私は私の本を読みそうな聴衆に焦点をあわせますからね。誰もトールやアポロを信じていないので、私はわざわざそれらを記述しません。したがってそれは、アブラハムの神の信奉者へ宛てられることになります。

-- あなたの著書では、無神論者は合衆国では特におおっぴらに悪口を言われるとあります: 「今日のアメリカの無神論者の地位は、 50 年前の同性愛者のものと同等である」。それはすべて、あなたが住んでいるところによるものではありませんか? 私は福音主義キリスト教徒であることが無神論者であるよりはるかに困難であるアメリカの様々な都市と学界を知っています

そうですね、私は控えめにするべきでした。あなたの言う通り、英国と欧州の多くでは無神論者は立派な存在です。それはアメリカでも同様で -- 勿論、私はそう認めなければなりませんし、アメリカの友人たちに謝罪しなければなりません -- アメリカの多く、だいたい 50% 程度では人々は知的で無神論者です。数字が必ずしもそう示すわけではありませんが。

-- あなたが二つの言葉 -- 知性と無神論 -- を結びつけるのはとても興味深いことです。あなたはより知的になればなるほど、無神論者になっていくと言っているわけですか?

こう答える他無いですね。Yes。

-- エリート主義のように聞こえてしまいます。あなたはその理由を示したいですか?

エリート主義で結構ですとも。もしも人々を除者にするのでなくエリートとして迎えようとするのなら、エリート主義の何が悪いのでしょう? 私はむしろ人々がみな勝利を手にすることを切望しています。その証拠として、多くの研究がなされました。私の知っているある一つのメタ分析は、メンサマガジンで発表されました。宗教と学習到達度あるいは IQ の関係を調べた 43 の研究です。そして 43 のうち 39 の研究 -- 4 つのケースを除いた全て -- において IQ と学習到達度に相関関係が見られました。さらに教育を受ければ受ける程、あるいは知的になればなるほど、無神論者に近付いていきます。

-- あなたは著書において、あなたの目的について率直に語っています。あなたは「信心深い読者がこの本を読み終えるころには無神論者になっているでしょう」と望んでいます。本当にそうなると思っていますか?

いいえ、私はそれがただの背伸びだとも書いています。それは野心です。私は私の本を読んだ最善の結果としてそうなることを望んでいたのです。私は現実主義者過ぎるので、まさかそうなるなんて思えませんよ。

-- 宗教の何が悪いのでしょうか?

そうですね、宗教はあなたに虚偽を信じこませ、まったくもって説明になっていない説明で満足感をあたえようとします。そしてこれが特に悪いのは、科学による説明はとても美しくてエレガントだということです。多くの人々は、世界と生命のための科学に決して触れることがなく、それは非常に悲しいことです。しかし、もしも人々が対立する組織による企てにより妨げられているのであればそれはもっと悲しむべき事であり、それこそが多くの宗教の実態です。しかし、それは私が宗教に敵対する理由の最初の一つに過ぎません。

-- 私にはあなたが宗教が不誠実だとだけ考えているとは思えません。さらに何か害悪となるようなものでも?

そうです。私は強い信仰心には無根拠なものを信じさせ、それどころかそれを誇らしく思わせるという酷い害悪があると考えています。そのことが危険な理由は、それがあらゆることを正当化してしまうということによります。もしも聖典や司祭により神への不敬をはたらくものや背信者は死に値すると -- かつての信仰を捨てたもは死ぬ必要があると -- 教えられたとすれば、それは明らかに邪悪な事です。彼らはそれの信仰ゆえに、何ら自己弁護する必要がありません。彼らは「それにはこういう真っ当な理由があるんだ」と言う必要はなく、「それが教えだ」とだけ言えば良いのです。私たちに期待されていることは、私たちの主張を引っ込めてその教えを尊重することだけです。私たちが自ら信仰を捨てない限り、教えを敬いそれに疑問を持たないようになってしまいます。そしてそれはとても酷い結果をもたらします。歴史的な惨事 -- 十字軍、異端審問、そして現代において起こったニューヨークの自爆テロに至るまで -- は全て信仰の名の下に起こったことです。

-- しかし、人を殺すような過激派と穏健派の間を区別する必要があると思いませんか?

もちろん区別する必要があるでしょう。彼らは全く異なった存在ですが、あなたの言う穏健で分別のある宗教家たちは、過激派が子供達がその教義を至高のものであると信じるように育て -- 時として洗脳さえして -- 、社会に教義を尊重するように影響を与えやすいよな世界にしているのです。穏健派の信仰心は、それ自体では害をなすことはないものです。しかし、教義を敬うべきだという考えはイスラム世界においてイスラム教寺院学校の子供達に刷りこまれています。それは過激派ではなく、立派で分別のある教師やイスラム教の師によって教えられますが、彼らが成長した時にはそのうちのごく一部はかつての教えを思い出し、聖典を再び手に取り、それを額面通りに受け取り、そしてそれを心の底から信じてしまいます。穏健派は聖典をそれほど信じているわけではありませんが、彼らは子供達に教義は尊いものだと教えてきたのです。そしてそれは、ごく一部の人に聖典 -- 旧約聖書、新約聖書、コーラン、他の全て -- に書かれていることを信じさせるという結果しか生みません。もしもそこに書かれていることをそのまま信じてしまったのなら、あらゆる非道な行いの歯止めが存在しないことになります。

-- しかし、穏健派の人々は過激派の末期的な思想に心を痛めています。

勿論、彼らは心を痛めていることでしょう。彼らはとても優しく、素晴らしい人達です。しかし彼らは人々 -- 特に子供達 -- に教義は疑う必要の無い高貴なものであると教え、このような世界にしてしまっているのです。それゆえ、彼らには傷つく権利はないのです。

-- あなたは何か教会へ入っているような親が、彼らの子供達に宗教について教えるべきではないというのでしょうか?

私が言いたいのは、親が子供に教えるべきなのは事実として本当だと知られているもの -- 「あれが青い鳥だよ」とか「あれはハクトウワシだよ」とか -- であるということです。子供達に宗教的な信仰心のようなものを教えることも出来ますが、唯一神が六日のうちにこの世界を作られたなどということを事実として教えることは児童虐待です。

-- しかし、子育てというのは子供にさまざまな価値観を教えることが主ではないでしょうか? ベジタリアンの家族が子供に動物を殺して食べることの邪悪さを教えるように、神を信じている親が子供に宗教的な価値観を教えることは出来ないのでしょうか?

子供は疑問を持つものです。もしも子供が「どうしてそうすることが間違っているの?」と聞いたのなら、「他の人にそうされたらあなたはどう思うのかしら」と言えば完璧に近く答えることが出来ます。子供に教える際の黄金則: 「他の人からされて嫌なことはしちゃダメ」。もしも万人が万人に対して盗みを行っていれば、世界はめちゃくちゃになってしまいます。だから盗みは良くないことです。もしも子供が「どうしてお肉を食べちゃいけないの?」と聞いてきたのならば、「お父さんもお母さんもベジタリアンで、こういう理由でお肉を食べることは良くないことだと信じているんだ。お前がが大きくなったら、そのときにベジタリアンになるかどうか決めてもいいよ。でも今はこの家で暮らしているのだから、お肉を与えることは出来ないんだ」と答えれば良いのです。これなら理解できます。私が思うに、子供が多くの異なった信条を持つ人がいることを知り、それを自分で選ぶという自由を許さないことは虐待です。

-- 教会に行くわけでもなく、自分達の事を宗教的だと -- 人によっては霊的という言葉を好むようですが -- 自称する妙な人達がいます。彼らは組織化された宗教に属していません。彼らは個人的な神も信仰していません。人によっては余計なもののついた「神」という言葉を好まないことすらあります。しかし彼らは現実を超越したエネルギーを感じており、またしばしば霊的な修練を彼らの生活に組み込みます。彼らを宗教的と呼びますか?

難しい質問です。多分、彼らを宗教的でと言うでしょうね。それは彼らが何を心の拠り所にしているかによります。 "The God Delusion" の最初の章ではアインシュタイン (彼はしばしば「神」という言葉を使っていました) について話しています。アインシュタインはあらゆる種の個人的な神を信じなかったという意味において、間違いなく無神論者です。彼は「神」という言葉を、誰にも理解できないとても神秘的な宇宙の礎の比喩として使っていたのです。

-- しかし私が思うに、多くの人はアインシュタインは自然神教者だったと言うでしょう。彼は神が自然法則を作り、物理法則を作り、そうして宇宙が出来たのだと示唆しました。

その立場をとる人々はいます。私がアインシュタインの残した言葉から判断するに、彼は自然神教者ではなかったということになります。彼は私がそうであるように、ある種のとても神秘的な何かを信じていたはずです。そのような人を表すのに「宗教的」という言葉を使うことは出来ます。そうなると、私あるいはカール・セーガンは宗教的な人だったと言うことが可能です。しかし私にとって、何を信じているかどうかではなくその人の行いこそが境界線となっているのです。その基準により、私はアインシュタインが自然神教者だったとは思えないでのす。彼はまず有神論者ではありませんでしたが、彼の使った言葉はあなたにそう思わせたかもしれません。私は彼の「神」という言葉の使い方は誤解を招くものだったと思います。私はアインシュタインのその点については残念に思っています。私は彼が自らトラブルを招いたと思いますし、彼は間違いなく誤解されました。

-- あなたの宗教的な信条の定義は人格的存在を含むのですね。私は多くの人がそれには賛同しないと思います。彼らは自分をとても信心深いと思うでしょうが、彼ら個人の神についての考えが宗教とは何であるかというのと同じ時代遅れの概念と思うかもしれませんね。

さて、私が知りたいのは彼らがそれによって何を意図したかということです。私は神にしろ何にしろそれは -- 私たちが何について話していようとも -- 面倒なもので、ありえそうもなく、それは人の持つ性質 -- 知性、創造性、その類の何か -- という立場を取ります。もしもあなたが宇宙が知的な存在によって設計されたと信じているのなら、あなたが個人的にどう呼ぼうが関係無しに、それは神のよい定義に思えます。それは私が信じていないものであり、アインシュタインが信じなかったものなのです。

-- 原理主義的な人の話はさておき、私は多くの人が科学と宗教は共存可能だと考えると思っています。スティーブン・ジェイ・グールドによる有名な主張は、それらは「交わることのない領域」 -- 科学は観測可能な宇宙における事実と理論によって証明される領域を受け持ち、宗教は究極的な意味と道徳的価値観を引き受けるものであるというものです。しかしあなたはこれも否定される。そうですね?

ええ、私は宇宙についてなんらかの主張 -- 科学的な主張 -- を行うという意味で、科学的な信条と宗教的な信条は同じだと考えています。もしもあなたが宇宙は超越的な存在によって作られ成長してきたと信じるのなら、それは宇宙は作られもせずまた創造者も持たないという類の主張とは大きく異なった類のものです。これは科学的な見解の相違です。例えば奇跡、もしもあなたが奇跡を信じるのならそれは明らかに科学的な主張であり、あらゆる奇跡は科学的な手法をもって検証可能です。

ありえないことですが仮りに、科学考古学者が -- おそらくは発見された DNA の一部から -- イエスが父親を本当に持たずに処女出産によって生まれた証拠を手に入れたと考えてください。あなたはスティーブン・ジェイ・グールドの「交わることのない領域」を養護する神学者たちが「とんでもない、 DNA という証拠は完全に無関係だ。間違った領域だ。科学と宗教は無関係であり、ただ平和的に共存するものだ」と言い出す様を想像できますか。勿論彼らはそんなことは言わないでしょう。そのような証拠は、きっと大声援で迎えられることでしょう

-- 科学は「どうやって」の問いに答え、宗教は「何故」の問いに答えるという古くからの金言はどうなのでしょうか?

私に言わせてもらえば、それは取るに足らない言葉です。「何故」の問いとは何なのでしょうか? 進化論者の世界には意味ある「何故」の問いが存在します。鳥は何故翼を持っているのでしょう? それをもって飛ぶためです。そしてそれは、進化論者による「翼を持った鳥が持たなかったものよりも生存率が高かったという進化のプロセス」の言い替えです。しかし、彼らはそう言ってるのではありません。彼らは計画的、目的的な意味で「何故」を使っています。それで、あなたが宗教は「何故」の問い -- 私たちが議論している全ての問い -- を扱うものだと言ったとします。私たちの中の宗教 -- 超自然的な宗教 -- を信じない者は、ここにはそういう意味の問いなど無いと言うでしょう。単にあなたが「何故」で始まる英文を作れるからといって、それに答えがあることにはならないのです。私はユニコーンが神聖なのは何故かと問うことが出来、それは何らかの意味を持っているように見えますが、それは答えるには値しないものです。

-- でも重大な「何故」があるではないですか。何故私たちは存在するのでしょう? 私たちが生きる意味とは何なのでしょう?

それは答えるに値しない質問ですね。

-- あの、私が思うに、世界中の多くの人々はそれらの疑問を生きる上でとても重要だと考えていると言うでしょう。それらは実存主義の大いなる問題であり、科学の領域を越えるものです。

もしもあなたが宇宙が存在する意味について言っているのなら、私はそれは論点をずらしてるだけだというでしょう。あなたがたまたま宗教的であれば、それは意味ある問いだと思えるでしょう。しかし、あなたがそれを言葉にできるということは、それに答える価値があることにはならないのです。私たちの中で神を信じない者は、ユニコーンが神聖なのは何故かという問いは質問として不適切だというでしょう。それは単に答えるべきでは無い、答える理由の無い、答えるに値しない問いです。

-- 理解しかねます。誰もが疑問に感じることではないでしょうか? 私たちがこの世界で何をしているのかは、重要な問いではないのでしょうか? 誰もが葛藤しているのではないでしょうか?

同じように重要な問いがあります。どうやって宇宙は始まったのでしょうか? 物理法則の出自はどこなのでしょうか? 生命の起源はどこにあるのでしょう? 何故何十億年も経ってからこの星に命が生まれ、進化を始めたのでしょうか? これらは科学が答えを出せる正当な問いです。もしも今は無理でも、未来に希望を托せます。それらはもしかしたら科学が決して答えることのできない、とても、本当にとても深遠な問いかもしれません。しかし科学の答えることのできない問いがあったとして、どうしてそれに宗教が答えうると思うのでしょうか?

-- あなたの本の一点に、あなたは思想的な衝突を好まないとあります。あなたが宗教と科学の戦いのまっただ中にいることを考えると、多くの人々を驚かせることになると思います。何故あなたがそういう強烈な反応を引き起こすと思いますか?

まあ、私は衝突のための衝突を好まないということですね。私は戦ってそして台無しにしたりはしませんよ。私は友好的な議論の方がずっと性にあっています。しかし私はプロの研究者であり、プロの研究者はあらゆる種類のことについて議論するものです。そして私たちはしっかりとしたやり方で、出来うる限りの論拠を出し、それを使うための討論の技術を使って議論するのです。そのために私は熱くなって見えるのかもしれません。でもそれは私が道を踏み外し、好戦的なやり口で衝突を招くということにはならないのです。私はそんなことはしませんよ。

-- 私は ID 論者であるウィリアム・デムスキからの手紙について質問する必要があります。彼はあなたが率直な無神論者であることに感謝しています。彼の手紙には、「僕は君が有神論と ID 運動に箔を付けてくれたことに感謝しているんだ。実際問題、僕は聴衆に対して君と君の行いは神が ID 運動に与えてくれた素晴らしい贈り物だと語っているんだ。そう、だからこのままどんどんやってくれ!」とあります。どう思いますか?

はは、思うことはいろいろありますよ。これは私たちが直面している難しい政治的なジレンマなのです。アメリカでは今この瞬間も公立の学校で教育的な -- 進化を教えることについての -- 戦いが行われているのです。明らかに科学は攻撃を受けています。そして進化が身を潜めているのは最前線の塹壕です。そのため科学を -- 実際は進化論を -- 守るための団体が発足しました。今のところ、あなたがアメリカの公立校で進化を教えるべきかという限定的な問題の審理に勝ちたいのであれば、こうすればいいのです。私のような人物を証人喚問して向こう側の弁護士に「ドーキンス教授、あなたはダーウィンの進化論を通じて無神論へと導こうとした、そうですね」を言わせるのです。私はそれに「はい」と答えなければならないでしょう。陪審の誰もが無神論者は悪魔の生まれ変わりだと教えられてきたので、これはつまり彼らの手に落ちたということです。したがって、ダーウィンの進化論が無神論に至るならば、明らかに我々はそれを捨てなければならないのです。それこそがデムスキの言わんとしていることです。彼が私の言うことが気に入っているというのは、私が彼のような人がダーウィンの進化論と無神論を等価だとすることを認めることで、その結果として彼の手の平の上で踊っているからです。

-- しかしデムスキだけではなく、私は多くの強硬な進化論者を含む科学者 -- あなたがそのレトリックを和らげることを望んでいる科学者たち -- からも同じことを聞いています。

そうでしょうね。

-- 彼らはそのことが進化を教えることに害を為し、創造論者を焚き付けると言っています。

まさにその通りですね。彼らは政治的には正しいかもしれません。これはあなたが、創造論者が考えるように本当の戦いは進化論を教えることにあると考えるのか、あるいは私が考えるように超自然主義と自然主義の間、そして科学と宗教の間で起こっていると考えるのかにかかっています。超自然主義と自然主義の戦いだと思えば、進化について教えることは小競り合いに過ぎません。あなたの話された科学者が私に口をつむぐように頼んだからといって、それが何だというのでしょうか。私が戦いの目的とみなしているものにおいて、私はある戦いで敗北の危機にあるのです。そしてそれは彼らが彼らの思う政治的なポイントからも価値のある部分なのです。

-- 私が思うに、多くの科学者がスティーブン・ジェイ・グールドのアイディアを受け入れています。強硬な進化論者さえ、宗教は全く違ったところにあるものだと言っています。だから、あなたのその煽情的なレトリックは彼らにとっては余計なお世話なのですよ。

確かに彼らはそういっていますね。そして私は、実際のところスティーブン・ジェイ・グールドが「交わることのない領域」を前面に出している理由は政治的なものだと信じています。私にはそれがナンセンスに思えますし、私はそう言い続けるでしょう。それに私は何故彼がそんなことを言っているのか、何故他の科学者はそれを受け入れるのか、政治的理由が明らかに見えます。極めて単純な政略です。アメリカで重要な地位にある科学団体は、非常に信心深い人々 -- 神学者、司教、進化を信じる聖職者 -- を自分達の側に引き入れたいのです。そのような信心深い人達を引き込む方法は、科学と宗教は対立しないと宣言することです。信仰の有無にかかわらず、私たちはみんな進化を信じています。それゆえ、私たちが多くの信仰者を引き入れることは彼らの神に対する原理主義的な信仰を認めることになり、 -- 私見ですが -- 進化を巡る戦いに勝つのと引き換えに戦争全体には負けてしまうのです。あなたが戦争に勝つためにこの戦いを妥協する用意があるとすれば、それは政治的に賢明な戦略です。

何年も経って、そういう政治的な妥協へ向かったものもいます。もしかしたら、私がそうすることは良いことなのかもしれません。しかしながら、私にはこの戦争はもっと重要なことに思えます。私は本当に超越的な存在に対して警戒しているのです。それゆえ、私は私が偽りだと信じるもの -- 神が存在するかどうかに関する問いが非科学的であり、そして科学と宗教はまったくの無関係であり、よって我々はいかれた創造論者とは離れたところで居心地よくいられるということ -- について何か言うべきではないのです。

-- ちょっと進化論の戦いに戻りましょう。何故あなたはダーウィンの進化論は必然的に無神論へ至ると考えているのですか?

ああ、必ずしもそのことは必然ではないですよ。私はそれを知覚の高まりと呼んでいます。私は調節的な存在への信仰のもっとも強い理由はデザインに関する論点にあると考えます。生きとし生けるものは時に複雑で、美しく、エレガントで、まるで誰かにデザインされたかのように見えます。私たちはみな、デザインされたように見えるものはデザインされたのだと思うことに慣れています。それゆえ、ダーウィン以前には誰もが有神論者だったことは当り前の事です。ダーウィンは論点を一変させました。私たちは生命の存在について、ずっとずっとエレガントで無駄の無い説明を手にしているのです。

そう、神の存在を信じる大きな理由は生物学的なデザインにあったのです。ダーウィンはその論点を壊しました。彼はそれと並行した宇宙論の論点 -- 宇宙の起源はどこなのか、物理法則の起源はどこなのか -- を壊すことはありませんでしたが、彼は科学により物事を説明するという能力へと、私たちの知覚を引き上げたのです。彼は何も証拠が提示されないということをもって、未来においてとにかくデザイナーの存在に頼り、無批判に受け入れる人全てを追いたてたのです。だから人々が「神無しで宇宙が出来たなんてどうして考えられよう?」と言う時には気を付けなさい、何故ならあなたは生物学に手を焼いたことがあるのだから。これこそが、ダーウィンの考えが無神論へと至る感覚です。

-- あなたが真の戦いと呼ぶもの -- 超自然主義と自然主義の戦い -- へ戻りましょう。多くの信心深い人達があなたを還元主義者であり唯物主義者だと呼んでいます。彼らはあなたがあらゆるものを計測可能で実験可能なものへ集約してしまうと言っています。「あなたにとって計測も実験もできないものは、存在しないも同然ですね」。

還元主義者も唯物主義者もずるい言葉です。多くの人がネガティブな意味を感じてしまいます。私はとても大きな意味では還元主義者であり唯物主義者です。私たちが本当に複雑な仕事について説明しようとするとき、例えば人間の脳のようなものの場合、私たちは脳の振るまいはニューロンによって説明がつき、ニューロンの振るまいはその中にある微粒子によって説明できるなどと信じており、その意味では還元主義者といえます。コンピュータが似ていますね。コンピュータは集積回路で出来ています。それらは 0 と 1 の混合、ただそれだけです。不可解なものを多く残しているという意味で、還元的だといえますね。コンピュータには集積回路とレジスタとトランジスタしかありません。そうであってさえ、それはコンピュータがそのような複雑な事を為し得るかについての高度な説明です。だから、「還元主義」という言葉を矮小化した意味で使わないでください。唯物主義者についても同じです。

私が言ったように、脳というのはとても複雑なのです。脳の行うことの一つは、幻覚と幻想という大変なソフトウェアを構築することです。私たちは毎夜夢を見て、私たちが目覚めるまで脳のでっちあげた幻想を疑えません。私たちの多くは幻覚に近い体験をし、それは脳の力が幻想を作り出すということなのです。あなたが十分に影響されやすくて特定の宗教におけるフォークロアを教え込まれたのなら、人々が映像に加えていくらかの音声を伴った幻覚を感じても、それは驚くべき事ではないのです。私にそれが起こっても、何ら驚くべき事ではありませんよ。

-- 私にはそれが宗教と科学の討論における重要なキーに思えます。あなたは意識をどうするというのです? 私が言いたいのは、あなたは本当に精神は完全にニューロンによるネットワークと脳における電気化学的な信号に還元できるものと思っているのですか? それとも物理的な仕組を越えた何かがあるのでしょうか?

もう一度言いますが、ネガティブな意味で「還元的」という言葉を使わないでください。脳における完全なニューロンの数とそれらの接続の複雑さは、否定的な意味で「還元的」という言葉を使えない類のものです。意識は生物学、神経生物学、機械学習そして進化生物学の直面している最大のパズルです。それは本当に、本当に大きな問題なのです。私は答えを知りません。誰も答えを知りません。私はいつかきっと答えを知ることが出来ると思いますが、もしも科学が答えを見付けることが出来なかったとして、質問を返します。どうして宗教が答えを出せると思うのですか? 科学が何か説明できなかったからといって、どういうわけだか宗教が適当に生み出した不完全で安易な説明が選ばれるのは明らかにおかしいです。それはより精進し、理解を深めようとすることへの動機であるべきなのです。諦めて「ああ、魂ってやつだよそれは」などと言ってはなりません。それは無意味です。説明になっていません。あなたがそう言っているのなら、何も言っていないようなものです。
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-- 私たちの話していることの多くは、科学には限界があるかどうかというところに行き着きます。あなたのポジションの基本的な宗教批評のは、科学はその程度を説明できるだけだということです。そこは神秘が、心が来るところです。

神秘に対応する方法は二つあります。科学者が選ぶのはそれをチャレンジの対象であり、取り組むべき何かであり、真に解決すべく挑戦するものと捉えることです。しかし一方で神秘にただふけって私たちの考える理解をしようとしない人もいます。取り組んではならないとされる神秘には神聖な何かがあります。科学には限界があると考えてみましょう。それらの限界に対して、宗教のラベルが何の価値を持っているのでしょう? あなたが単に宗教を科学が説明することが出来ない何かと定義したいならば、我々は何も話し合っていないのです。私はそれで不都合はありませんよ。私は、神は超自然的で知的な創造的な存在と言うことは大変な問題だと思っています。科学が説明できないことがあるからといって、それゆえ宗教的にならねばならないというのは単なる混乱です。個人的な信仰による宗教的な事などと知的な存在を同一視するのも混乱です。それは有害な混乱です。


むー、俺の語学力じゃこの程度が限界 (これでも結構気を遣って訳してるってのが情けない)。

追記@2006/10/18 00:04 1 ページ目まで翻訳。

追記@2006/10/18 23:06 2 ページ目まで翻訳。

追記@2006/10/19 20:14 研究を生徒とおもくそ誤訳してた。みんなごめん。

追記@2006/10/19 23:00 3 ページ目まで翻訳。

追記@2006/10/21 02:11 最後のページを翻訳。

追記@2006/10/21 08:50 誤訳珍訳を大量に指摘されたのでそれを反映。やっぱ結構ボロボロだったなー。

06:20

翻訳についての指摘をいただいたので、それを反映。いやー、やっぱヘンテコなミスはするものだな (ってかもっと勉強せなあかん)。続きの分も訳してみたい所なんだけど、ちょっとそのスタイルについては思案中。ずっと今日の日記に追記していくというスタイルでもいいのかもしれないけど、それだとシステムの都合上過去記事に埋もれっぱなしになるんだよなあ。かといって訳した部分が断片的に散らばるのはちょっとスマートじゃないし。やっぱこういう目的には日記スタイルは決定的に向いてないね。

もしもそれなりに需要があるようだったら、この手の目的のために Wiki の一つや二つ用意するのはやぶさかでは無いのだけど (ちょうど一個 Wiki クローンを作ってあるし。手直ししないといけないけど)、そんな需要あるかなあ? まあ、無くても用意するかもしれないけどな。

07:19

そうだ、簡単な算数の問題なんだ。まず二週間のうち 10 日は出社するのが普通なので、作らなければいけない弁当は 10 食分で、一食あたりおかずは三品なのが俺の標準型だ。そして多くの冷凍食品は 6 個入りなんだな。ってことはだ、異なる冷凍食品を 5 パック買えば、二週間ちょうどで使いきれる計算になるわけだ。そして一食あたりの食費を 200 円前後で納めるには、合計 1,800 円ぐらいが限度なんだな。

ここでさらなる問題として毎日違ったおかずの組合せは果して可能なのかという問題が出てくるが、それは数学の問題で算数の問題じゃないが一応書いとくと、 5 種類のうち 3 つを選ぶ組合せは 10 通りなのでちょうどよくローテーション可能。これは組合せの公式から導き出せる。いやー、数学って本当に役に立つね!

19:13

どうして翻訳が難しいかというとだな、それは海外の言葉の表現する概念や表現方法を母国語にマッピングしないといけないからだ。ぶっちゃけた話、単語の意味は調べりゃ大抵わかるし文法だって多少込み入っていても時間をかければどうにかなる。ところがある言語で表現されている概念を他の言語にマッピングするのは調べりゃわかるような類のものではなく、それどころかその概念が母国の文化に存在しない場合もある (プライバシーとかね。自由も福沢諭吉の造語だし)。

俺はもうこういうのは誤訳珍訳が恐くて素人によるゲリラ翻訳ができるかボケという精神で誤魔化してるのだけど、こういう部分をきっちりやれる人は本当に凄いと思うよ。

「空飛ぶスパゲティモンスター」の翻訳の続きはこれから2,3日かけてやってくつもりなんで、気長に待っていてください。

追記: いや、確実に 2,3 日じゃ終わらねーなこれ。来週までかかるかも。

19:47

はっはっは。そうだよ、昨日は二食分しか米を炊いてねーよ。晩飯の分の米なんてねーよ。

どうでもいいが、今朝方見た夢も酷かった。変態のデパートのようなホモ野郎にストーキングされるという酷い夢だ。

20:34

買っちゃった。俺は結構こういうのに目が無いんだよなー。

20:59

どうして俺が宗教を信じてる奴らや古くさい伝統に従ってる奴らと話が噛みあわないかというとだな、俺は信頼についての話をしているのに連中はそれを信仰として捉えているからだと思う。俺はかつて母親に「あなたは科学を信仰しているから」などという酷い罵声を浴びせかけられたが、多分ここら辺が一番大きなズレなのだろうな。

信頼と信仰は全く違うものだよ。友情と愛情以上に違う。

22:21

scribes の行ブックマーク機能がえらい便利な事に気がついた。ソースコード中の TODO をブックマークしておいたりとかそういう使い方なんだが、これがなかなかいい感じ。当然、翻訳のときにも役に立つ。ちょっと訳が変だけど先に進みたいときとか、一旦その行をブックマークしておくと役に立ったりする。

23:57

今、例のインタビューの 1 ページ目の翻訳のチェック作業中なのだけど、何度読んでも "That sounds like an elitist argument. Do you want to cite that evidence? " へのドーキンスの返答には痺れる。

Written by Kuwata Chikara
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