唐突だが新井英樹という漫画家について書く。
俺はこの人の漫画は「ワールド・イズ・マイン」と「RIN」と「キーチ」を読んだが、「ワールド・イズ・マイン」以外はどうにも苦手で仕方がない。なんというか、作品のテンポが俺のバイオリズムに全然一致しない。「ワールド・イズ・マイン」はとても好きな作品で、もしかしたら俺内カーストのバラモン作品に並ぶかも知れん。それでなんでこの作品だけはすんなり読めたのかというと、要するにこれは書いてることがあまりにもデカすぎて、いったい何が書かれているか咀嚼しているうちに漫画の方はまた周期が回ってきて、結果的に自分のバイオリズムと辻褄が合ってしまってるというのが本当のところだろう (だから何回か読み返さないと狐につままれた感じがするし、何回読んでも狐につままれた感じがする)。
そしてこの明らかにぶっ壊れた漫画の一体どこに魅力を感じているかというと、読んでて本当に何をされるのかわからない感が凄いところだと思う。なんか作者が特定の目的を持っているわけではなく、あるモチーフをいじくり回して延々とジャムってるような、まるでそういう印象。これはインタビューから明らかな事なんだが、この人は漫画を描く上でストーリーを描くためにキャラを配置しているんじゃなくてキャラを描くための口実としてのストーリーがあるってのが正確なところだろう。だからそのキャラクターに入れ込めるかどうかってのも重要な要素で、例えば俺は「RIN」の登場人物に好きなキャラは見事なまでにいない。
それで「ワールド・イズ・マイン」で一番好きなキャラは誰かというと、これはもうトシ以外に考えられない。多分、この漫画で一番重要なテーマを担っていたんじゃなかろうか。というのも、トシがどうしてモンに加担し、モンを独り占めにしようと思ったかというと、それはモンを神のように崇拝し、神の名の元に力を行使したいと思っていたからだろうね。トシは力を渇望し、だけれど力を行使することに付随するであろう責任に対して怯え、そして力を行使する口実が出来て殉教者となった途端に凶悪な風貌になったのだが、この展開は本当に神懸っていたと思う。最初はどう考えても凶悪な爆弾魔なのに澄んだ瞳のトシが、あれよあれよと言う間に狂って堕ちていくのはまるで信仰の本質を突いているよう。最初は神に仕えるだけで満足だったはずが、気が付いたら神を自分の欲望を満たすための道具あるいは言い訳にしている、それが俺の考える宗教の姿なのだが、トシの姿はそれとピタリと一致する。それゆえ、俺はこの狂った哀れな殉教者を愛さずにはいられない。
……というのはこの作品の一面で、あとにはヒグマドンというバカでかい謎が残されている。これに関しては本当何の目的でこんなとんでもない存在を投下したのか全然わからないので、今のところは白旗振るしかない。いや、単に趣味だとか心の赴くままにぶっ壊してみたかったとか、そういうのが理由な気がしなくもないけど。あとは無理矢理こじつけるなら、モン = 神ならもっと強い神がこの世界にはいるぜというか誰かの神がお前の神を殺すとか、そういう存在だったのかなあ。これについてはさっぱりわからん。
あーそれで作者はこうして無い知恵しぼって感想書いてる俺みたいな読者を見てゲラゲラ笑ってんだろうなー。それはそれでいいか。
Python と Perl の間にある誰もが引っかかる罠。
print 'foo'
このコードは Python でも Perl でも動くが、その結果は異なる。 Python では改行文字も出力されるのだが、 Perl ではそれが出力されない。そしてそもそも Python の print はステートメントで、 Perl の print は関数呼び出しで、根本的に違うものだ。
どうでもいいが、 Perl でも注意深く書けばメンテナンス可能なコードが書けるってのはとんでもない話だ。それは書いた本人及びその人のコーディングスタイルをよく知っている人なら出来るってだけで、赤の他人、それも全然コーディングスタイルの違う人がメンテナンスできるとは思えない。少なくとも俺には無理だ。
C++ もかなり厳しいし、 Java には何の神通力もないことは散々仕事で思い知っている。 JavaScript も慣れてない人にはさっぱりわけわかめな言語だろうね。クラス (っぽいもの) 定義と関数定義が文法上全く区別されないってのはタネがわかるまでは釈然としないし、タネがわかるともっと釈然としない。同じプロトタイプベースだったら Io の文法の方がずっと正気だ。いや、 Io は Io で正気じゃないんだけど、 JavaScript みたいに恣意的ではないとは思う。
というか俺は恣意的過ぎる物が嫌いなのだよ。だから Python が % を文字列フォーマットに使っているのは釈然としない。なんでモジュロを返す演算子がフォーマットに使われてるんだよ。 format メソッドとかにすれば、誰も混乱しないと思うんだけど。まあ昔の Python は文字列がメソッドを持っていなかったらしいし、その頃からの悪習を引き摺っているだけだとは思うんだけど。
最近になって Pain of Salvation にはまる。孤高とか隔絶って言葉がえらい似合うバンドだ。難解、混沌、プログレッシブ。
別に HTTP リクエストヘッダのリンク元を誤魔化すのはいいんだけどさー、わざわざ「ソフトウェアでブロックされました」なんつー意味の無い文字列とかダミーの URI にする必要ないじゃん。そういうときは単に空白にしてもらえると、解析するこっちは楽でいいんだけど。というかそういう設定を思い付いて実行する人ってのは、絶望的にセンスが無いと思う。
サーバマシンを新調して預金残高が若干面白いことになってるってのに、勢いでサルまんを購入してしまった。なんというか、作中の竹熊先生も相原先生も正気の目つきをしていない。明らかに狂ってんるんだけど、なんというかその狂い方がナチュナル過ぎて、創作と商業の狭間で死にかけている人達ってこういう目になっちゃうのかなあというろくでもない想像をしてしまうだけの迫力と説得力がある。
それにしても身も蓋もない漫画だなこれは。これは漫画業界へのテロというか、漫画業界というヤクザな世界で起こった内ゲバというか、ときどき「なんでこの原稿が通ったんだよ!」と言いたくなるようなシーンが出てくるのだが。それとも元はもっと酷いネタだったのかな。
とりあえず上巻だけ読み終わって、下巻はまだこれから。この分だと下巻も酷いことになっていそうだ。
下巻の方は輪をかけて大変な事になっていた。だからなんでこの原稿が通るんだよ! 連載漫画が軌道修正しながら人気を得ていき、頂点を極めて失墜する様をここまでエミュレートしている二人は漫画界の核弾頭だと思うので、早急に逮捕した方がいいと思います。罪状? 後で考えれば済むことじゃないですか。
とにかく下巻で使われている作中作「とんち番長」の展開とそれを書いてる作中の二人の狂い方はここ最近読んだ漫画の中で一番酷かった。例えば「シグルイ」の狂気ってのは割りと美しいものを観賞している感じというか、美しくも不条理なダリの絵画を眺めるような感覚 (ただし、人物は例外なく臓物を出している) というか、割りとそういう感覚で読める。でもこっちはもっと生っぽいというか、生っぽすぎて適切なたとえも不適切なたとえも思い付かない。何しろ「とんち番長」の終焉の後、作中作でフラクタル構造になってるんだからもうどうしようもない。巻末のライトノベルにマウント決めた描き下ろしも大変な騒ぎ。