Diary?::2006-08-20

00:15

合法的に詐欺を働くための三種の神器:

あとは善意の皮を被せれば、よほどの事が無い限りは詐欺だとバレない。だってそうだろ、キリスト教もイスラム教も他の宗教も、ずっと多くの人達を騙してきたのだから。

09:36

今朝方の検索メッセージ。

このような変則的な連絡ですいません。伝統以外にも「正しい日本語を使う」という思想を持って使っている人もいます

あと俺の旧仮名遣いに対するスタンスへの反論。

俺が伝統それ自体にろくすっぽ価値を見出していないこと、正しいという言葉にかなり懐疑的になってしまうことが多いことを考えると、多分これ以上は確実に平行線でしょう。そもそも「伝統」それ自体の捉えかたや「正しさ」に対するスタンスが根本的に異なるようなので。

11:40

雨が降ってるが、今日は別に出かける用事がないから良いか。外出する予定がないという状況下では、俺は雨の日は結構好きだ。なんというか、雨音が心地よく感じるんだよ。

13:57

幻影随想経由。いや、これは凄い。これをこのまま発展させれば、「障碍者」という言葉が (少なくとも身体的な事に関しては) 過去のものになる日が来るかもしれない。完全に実用レベルになったとして、これを作って装着させて訓練させるコストがどれぐらいかかるのかが問題だが、それはある程度時間が解決しそうな気がする。

ここでよりによって「Damons」を思い出したのは我ながらちとどうかと思ったりするが、リアルタイムで読んでる漫画と実際の科学技術がそれほど大差なくなってきているというのは興味深い (いや、 Damons は念力だけどさ) 。確かに原作である「鉄の旋律」はえらい昔の作品だが、それにしたって脳波でコントロールできる義手が実現できるとは。こうやってまさかと思うことを科学者がゴリゴリ実現していってしまうのだから、こういう科学ネタを得意としてる作家は大変だな。

16:03

久しぶりに趣味のプログラミング。ここしばらくは仕事で使う JavaScript の習得でちょっとばかりいっぱいいっぱいだったり、そもそも家に帰ったらギターばっか弾いてたからな (その割には全然上達してない)。しかしやはり Python を書いてるのが一番快適だ。確かに俺は C 言語の子供達だが、由貴香織里にいわせれば子供は親と決別するものだから俺は Python と心中しても別にいいです (いや、 Python よりも明らかに良い言語が現れれば乗り換えると思うけど。でも出てくるかな、そんな言語) 。

全然関係ないが、最近の作業中やウェブブラウジング中の BGM は Candlemass の "Candlemass" 。ややこしいからこういうセルフタイトルはやめてくれねーかな。 Time Requiem なんて、デビューアルバムがセルフタイトルでセルフタイトルの曲が入ってるからな。 Paradise Lost に至ってはデビュー作が "Lost Paradise" でそこにはセルフタイトルの曲が入っていて、そのくせ最新作アルバムはセルフタイトルだからな。なんじゃこりゃ。

まあそんなことはどうでもいい。とにかく "Candlemass" はお薦め。ダークなメロディがぐおんぐおんと捻れるリズムに乗るドゥームメタルで、とにかくリフの繰り返しでの焦らしとそこからの転換とギターソロが思いっきりつぼ。オープニングを飾る不条理な世界観の炸裂する "Black Dwarf"、 イントロのリフで完全に掴みは OK な "Witches"、 アルバム筆頭のアップテンポナンバーである "Born in a Tank" あたりが特にお気に入り。

またもや話は変わるのだけど、 Windows + IE でローカルの HTML ファイルを開くと JavaScript の実行に関しての警告が出るのだけど、あれってどうやって出ないようにするのだ? さっぱりわからんからローカル用の Web サーバを書いて誤魔化したけど (ローカルの Web サーバからの奴だとエラーが出ないので) 。

19:24

あまりにも出来すぎて赤面する瞬間: 2ch コピペサイトでたまたまいい話系のページを開いた時、聴いてる音楽が叙情的な曲 (さっきのは W.A.S.P. の "Wild Child") に切り替わる

一人暮ししてるとこういうのに敏感になる気がするが、よくよく考えたら俺は昔からそうだった。

22:55

またまた検索メッセージ

「存在すること自体が目的になった存在なんて、クソ食らえ」とか言っちゃダメですよ。

うへえ、釘を刺されてしまった。でも、いい加減そういうものを無理矢理残すのはやめた方がいいと思っているのだから仕方がない。

そして実はこれは俺の中での人生観にも関わってくる。というのも、生命それ自体が存在することが目的の存在に思えるからだ。どうして生きるなんて面倒臭いことをいちいちしなければならないのだ。極論、人類だっていつかは亡びるし地球上から生命が消え去るときも来るだろうし、そもそも宇宙の死もやってくるだろう。じゃあ何でわざわざ生きるのか?

だったら死ぬのが一番手っ取り早いわけで、じゃあ死んでみようかという話になる。でもちょっと待て、いずれ死ぬのにわざわざ今死ぬ必要があるのか? もしかしたら明日あたり交通事故にあうなり自爆テロに巻きこまれるなりして死ぬかもしれないが、でもそれなら今日死ぬ必要は無い。そういう意味で死ぬことにも理由は無いわけで、全くの理由なく別の選択肢を取るのは俺のスタイルではないので生きることにする。

デフォルトの選択を漫然と続けるというのもあまり楽しい話では無い。やはりなにかしらの目的や理由があった方が、心おきなく生きることができる。そして俺は今ここで「楽しい」という言葉を使った。いつごろだったかは忘れたが、俺のもっとも重要な価値判断は「俺が楽しいと思えるか」「俺が美しいと感じるか」といったものになってしまった。そうして俺はこれらを追求する過程で快楽主義者と修行僧が一体となったようなスタイルになったらしい。

以上の理由により俺は自分が面白い/美しい/興味深いなどと思えず、なおかつ合理性や妥当性を感じない物にはかなり酷い態度を取ることが多々あるので、そういうのが気にくわないと思ったら心おきなく罵るといいと思います。そうやって喧嘩しているうちはお互い死ぬこともないだろうし、必死こいて戦っていれば「何故生きるのか」などという今にして思えばバカらしい疑問で悩む暇なんて無いわけで。

ちなみに生命全般に対する考えは、「生命には価値がなく精神にのみ価値がある」でもう何年も固まっている。生命それ自体は存在することだけが目的なので、滅びるのであれば無理矢理延命処置をするまでもないと思うが、精神の方はそうもいかない。ここでいう精神とは「当人にとって極めて都合のいい何か」程度に考えてもらえればそれでいい。例えば、魚を食う半面熱帯魚を飼育する感情とか、今まで死んだ胎児の脳細胞の研究を禁止するよう働きかけていたのに自分の家族がそういった研究でしか救われないとわかったら考えを一変させるとか、そういう物。俺はそういうエゴイズムは全然否定してない。むしろ、そっちの方が人間らしいと思う。

だから俺は自分が「これは滅んでも俺は別にどうでもいい」と思っている物はぞんざいに扱い、「いやこれが滅ぶのはマジ勘弁」というものは保護しようとする、ただそれだけのこと。そして俺の「滅んでもいいっていうか滅べば物リスト」と他人のそれは確実に違うので、まあようするにこれまで何度もいろんな人と衝突してきたわけだが。でもそうやって衝突が起こることは、結果的に人類の多様性 (=混沌具合) が保護されるのでいいことだとも思っている。ここでの秘訣は、出来るだけどうしようもなく決裂すること。

例えば俺は全ての宗教は滅んでしまえと思っているが (そう思うようになった経緯は別の機会に)、実際に滅んだら多分俺は嬉しく思う半面、戦う相手が一つなくなって多少は寂しさを感じるだろう。要するに、俺には四六時中何かと戦っていたいと思っている面があるのだ (いい加減飽きて逃避したいという面もあるが)。だから実際のところは、多少シーソーの傾きが変わるぐらいでいいのかもしれない。もっとも、最初からそういう風に行動すると結果が出ないと思うのだけど。

だから俺が価値を認めていないものを崇める連中を俺は白い目で見るし、その一方でそういう人達は俺の事を白い目で見る必要がある。俺は言ってみれば神の視点では多様性を重んじているが、俺個人の視点ではかなり心の狭いことを主張している。別にそれでいいだろう、だって世界の全てを抱擁できる程に心の広い人間なんて、想像するだけで気色が悪い。そもそも全てを認めるというのは判断保留と一緒の気がするし。

「では、まとめを」
「まとめ。そうねえ。お前以外の人間はみんなお前じゃないからそのことだけは忘れるなよってことしかないんじゃないの」
「そうですね」

23:25

作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺している語るについては、ペットを飼っている人間は多かれ少なかれ似たようなことをしていると思うので別にこの人が特別不道徳だとは思わんな (そもそも道徳それ自体に懐疑的なのだがそれはまた別の話)。それにさ、それいったら中絶も避妊もダメでしょ、明らかに。個人的な感情としては子猫を殺すのは胸糞が悪くなるが、それは俺がむかついているだけの話だからな。いや、本当にむかつくのだが。でもそれって人間の分際で猫のことがわかっているように思っているだけだから、実のところ醜い感情なんじゃないかな。

そもそも俺はペットというか猫を飼うことの愚かさをとうの昔に思い知ったので、それ以来妹たちが猫を飼いたいと言い出してもずっと反対してきた (結局飼う羽目になったのだが)。やはり猫というのは気ままに生きて気ままに死ぬのが美しいと思うので、もしも飼うにしても飼育するというよりは宿をちょっとだけ貸すというスタンスの方が、なんというかしっくり来る。それに対してペットとして自分の手元に置くのは、ねえ。犬だったらまだわかるんだけど、猫は、ねえ。

この人の行動を俺が支持することは感情的な面ではないだろうが、何も考えずに猫を飼って避妊手術してる連中とどっちがましかと聞かれたら、答えに悩むな。先に書いた通り俺は猫を飼うという行為を否定しているので、スタート地点で両方失格としか思えない。そもそも人間の分際で動物の権利について一瞬でも考えてしまった俺も失格といえばそうだし。

どうでもいいけど、俺は犬が大の苦手。吠えるし噛むしろくなものじゃない。今までの人生で唯一俺にもなついた犬は友人の飼っていた犬だった (なんか俺たちの真似して道を渡るときに左右の確認とかしてやがるの。利口で可愛い犬だった) が、そいつが死んで以来俺は犬の世界で孤立した。その頃の近所の犬はみんな俺に吠えてきたのだ。それ以来、犬はどうにも苦手だ。

さらにどうでもいい話をすると、最初に俺が飼った猫は誰に似たのだか高いところが苦手らしく、当時の俺の背丈 (160cm 程度だったか?) 以上に高いところには登れなかったり、箱を作って眠らなかったり、夜な夜な油をなめていたり、下痢をしたあとその排泄物のついたマットを折り畳んで隠蔽しようとしたり、本当誰に似たんだか大変たちの悪い猫でございました。そいつはいつのまにやら家出していて、その時以来俺は猫を飼うことをやめた。

しかしこうして当時の記憶を書き出してみると、今でも心のどこかで飼っていた猫を特別扱いしている自分に気がついて驚く。いや、それが人間らしさだと言われればそうなのかもしれないし、よくよく考えたら俺は漫画にしろなんにしろ感情移入しやすいたちなので、飼い猫に情が移るのは当り前だよなあ。情が移るのをよしとせず、それ故猫を飼うことを否定してるんじゃないかと聞かれたら、もしかしたらそうかもしれない。要するに俺はこうやってうだうだ文章を捻り出す程度には猫が好きなのだ。

Written by Kuwata Chikara
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