Diary?::2005-08-02

こういうのを見るにつけ思うことは、倫理や道徳というのはあくまでも自分を律するためのもので、他人を律するためのものではないということ。もしも無断リンクを禁止しているサイトにはリンクしないのがよいと思うのならそうすればいいし、お構い無しにリンクしたければそれで良い。後者は諍いを招くだろうが、それは相手に最適解(パスワード制限のかけかたとか、SNSとか)を与えるチャンスでもある。

あとやっぱり真面目な議論でたとえ話は使うものじゃないな。お年寄に席を譲るというのは大多数の人が持っている共通の倫理だが、無断リンク禁止は大多数とは言えないだろう。お年寄に席を譲ることが正しいこととされているのは、それがただ単に一般的に知られて共通の倫理観となり、誰もがその倫理観で自分を律しているからで。倫理的なことが全て守られるべきというのは余りにも乱暴な意見に思える。

ところで無断リンク禁止のサイトにリンクしないってのは本当に倫理的な行為なのか? 無断リンク禁止って事はつまり自分の想定していない読者を弾く行為なのだが、検索エンジンのクローラーはお構い無しにやってくるし、検索エンジンなどで注意書きのページを読まずに到達した閲覧者は無断リンク禁止だと気がつかずにリンクすると思うのだが。結局のところ前述の最適解などを教えた方が相手の幸せになると思うぞ。

そしてこれは俺の倫理観。一般に公開しているWebサイトで無断リンク禁止を掲げることは、自由にリンクをしたいと思っている人たちを蔑ろにしている。相手を尊重しようとしないのに自分を尊重しろと主張する相手を気遣う必要性は、砂粒たりとも存在しない。そして俺は無断リンク禁止という主張は否定しているものの、システム的に構築された閉鎖的なネットワークは否定していない。それどころか従来のようにいきなりパブリックな空間に放り出すことに疑問を感じている部分もある。十分プライベートなWeb上の領域には理解を示しているつもりだ。


ていうかこの議論はいつまで繰り返されるのだろう。閉鎖的なネットワークが一般的になって、今のパブリックなネットワークがマイノリティになれば解決するのか? 誰もが最初はmixiみたいなサービスからWebの世界にやってきて、そこである程度のリテラシーとかを身につけて、それでパブリックな世界にいきたい人だけが現在一般的になっている形でのWebサイトを作るようになるとか。

そうやってプライベートなネットワークが一般になればパブリックな空間には生え抜きの強者が集まる可能性が高くなるし(根拠なし、希望的観測)、リテラシーの未熟な人もいきなりパブリックな空間でショックを受けずに済む。

情報がプライベートな空間に留まってしまうリスクはあるが、案外情報の住み分けが起こる気もする。これも希望的観測。


以下は俺にとっては倫理の話。

ある2つのアプリケーションA,Bがあるとする。AとBでは扱うデータ構造が違うため、同じ文面の文書を作っても互換性の無い形で出力される。それでもAで作った文書とBで作った文書をお互いのアプリケーションで使いたい。AがBにあわせるのか、それともBがAにあわせるのか。答え:XMLなどの標準的な形式での入出力をサポートする。

ある二人の人間CとDがいるとする。CとDでは信仰している宗教が違うために、二人がトラブルに巻き込まれた時に共通した解決方法が無い。どちらかがどちらかにあわせることは、あわせた方が信仰を捨てることになる。どうすればいいのか。答え:暮らしている国の法律に従う。


昨日の日記のConveraCrawlerだが、絨毯爆撃を仕掛けていきやがったので拒否決定。どういう訳だか存在しないアドレスにまでリクエストを出しているのだから、ちょっとこれは救う気になれない。以下、そのありえないリクエストの例。

"GET /hogehoge/ HTTP1.0" 200 #これはOK
"GET /hogehoge/id=section1-2-4" 404 #どうも勝手に類推してアクセスしてる?

こういう下らないアクセスで負荷をかけられるのは迷惑だし、何より不出来なクローラーを甘やかすのはよくないだろうし。

Written by Kuwata Chikara
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