Diary?

2007-12-16
Sun

(02:23)

昨日書いたとおり胃腸を悪くはしているんだけど、流石に腹減りっ放しは我慢できないので胃薬とか飲んで飲み食いしてたわけよ。で、今になって薬の効果が切れたわけよ。で、薬のストックがもう無くなってるわけよ。

えーと、とりあえず下痢って気合で治ってくれないかな。

(23:19)

今のところまだ未完 (その 8 まで書かれてる) だけど、非常に読む価値のあるエントリ。題材はある種の捕鯨反対運動だけど、それをもって宗教の本質にも迫っているところが面白い。

ただ、俺の宗教観とこの人のそれは多分一番大事なところで違っていて、それはきっと俺が 10 才の頃から五年ほど創価学会と敵対関係にある真如苑とかいう電波集団に入信させられていて、結局自分の意志で抜け出したことが関係してるだろうな (その時に散々俺を罵倒した母親は今でも許していないし、許すつもりもない。何より本人はそのことを忘れている)。その五年間で俺が理解したことは、信心深い人は狂っているわけではなく単に騙されているということだ。恐らくその騙され方は結婚詐欺に近いもので、騙されていたとわかったときの絶望感も「自分を幸せにしてくれるはずのものが単なる幻想だとわかってしまう」という点で似ているのだろう (そして驚くほど愛と信仰は似ている、と思う)。

俺がことあるごとに「宗教なんぞまやかしだ」と公言しているのは、ある意味で結婚詐欺にあっている真っ最中の人に「あんたは騙されている」と言っているのと同じだ。こういった忠告に耳を貸す人がどれだけいるのかわからないが、出会い系とかの絡んだ事件の報道を見る限りはまったく期待できないのかもしれない。むしろ、「そんなはずはない」とヒステリックに喚き散らす事の方が多いのかもしれない。もっとも俺に既に何かしらの宗教にはまっている人の目を覚まさせてやるという意志があるかというとそれはあまりなく、むしろまだはまっていない人たちへ注意を喚起すること、そしてその手の連中と距離を置くためなんだけど。

この問題が根深いのは、人間はどこかで思考停止したがっているということだろう (当然、俺もそうだ)。というか、多くの場合に人間は思考停止して適当な何かに白紙委任状を出していると考えるべきだとすら思う。それはもしかしたら「いつもの癖」かもしれないし、「常識」かもしれないし、「世間」かもしれないし、「宗教」かもしれない (そういう意味じゃ日本人は「世間教」の信者で、「そんなもん知るか」で済ませてきた俺はいつ異端審問にかけられてもおかしくないというか既にこれはかけられているな)。そしてこれは何に対して思考停止しているかという問題であり、それ以上に自分が何に対して思考停止しているのか自覚しているかという問題でもあり、どこまで他人の思考停止に目を瞑るかという問題でもある。相手の思考停止っぷりが酷くてどうにかせにゃならんと思った場合、どうせ相手は白紙委任状を出しているのだから、少し懇切丁寧に指導すればどうにかなることもある。が、もしも相手が委任した先に強く依存してしまっていたら? ゲーム脳に代表されるゲーム叩きが厄介なのは、例えば子供を持つ親などにはそれが子供たち (自分の理解できないメディアを軽々と使いこなす) に対してのある種の不安を取り除いてくれるもので、恐らくそういった人たちは子育ての不安が無くならない限りは結局似たような何かに飛びつくだろう (俺は独身なので子育ての不安が消えるものかどうかはわからん。もっとも俺がまだ十代の半ばの頃にとある歌の歌詞を「宗教的に問題がある」とか言い出した母親を見る限り、どうしようもないものの類なんだろ)。

ここで件のエントリに話を戻すと、これはリンク先でいうところの「ガイア教徒」はまず居なくならないので (恐らくヒステリックな捕鯨反対運動が鳴りを潜めるのは連中がもっといいターゲットを見つけた時)、結局彼らとどう付き合っていくのかという問題になる。俺個人のレベルの話なら簡単で、やはりガイア教徒と個人的な付き合いはしないで終了である。が、もしもこれが国家単位の話だったら? 例えばオーストラリアと国交を断つなんてことは有り得ない選択肢だ。そうなると問題は捕鯨反対を表明している国家のうち、どれだけがどこまでガイア教徒へのパフォーマンスなのか、それらの国々とどこまで関係が悪化するのか、捕鯨によってどれだけの利益が発生しているかなどから最適解を導き出す問題で、これは俺が考えても良い答えは出そうにないな。

もちろん連中の不安が無くなればそれが一番望ましいが、俺にはそれは現実的だとは思えない。せいぜいまだ入信してない人たちや次の世代の子供たちがバカらしい不安や考えを植え付けられるのを阻止して、そういった不安の持ち主が全員寿命を向かえるのを待つしかなさそうだ。

どーでもいいしあんまり本題と関係の無いことだけどよくもまあ「死後の世界」とか「人生の意味とは何か」で悩めるものだと感心するよ。俺にとっちゃそんなことよか

  • 今書いてるソフトウェアの一体どれだけが完成に漕ぎ着けられるのか
  • いつになったら Michael Angelo Batio 大先生の曲を弾けるようになるか

の方が遥に重要で、こういうことで頭を悩ませる方が遥にマシな人生を送れると思ってる。どうやったって人間は悩むものだし、だったらもっと楽しいことで悩まないか。

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